虚人 寺山修司

寺山修司のテレビドラマを観た記憶はなく、まして天井桟敷など
覗いたこともないが、永いこと気になっていた作家だ。

物を創りだす仕事をする人、それも世間の常識から外れた
特異な生き方や考え方をする人に会うために評伝を求めるのは、

玄界灘を漂流したこと以外、わりと平穏でのっぺりとした人生しか
歩いて来なかったという反省と、可もなく不可もない善良な小市民で

終りたくない気持ちの反動が、本の中だけでも凹凸のある体験
をしたい願望となって普段から頭の中でもやもやしているからだ。

寺山修司はすべて模倣とパロディからなっていると断言しているが、
これは悪いことか。

総ての芸術作品なるものは模倣から始まりそれを取り込みながら
自分のオリジナルな表現を見つけ出して行くものだと思っている。

ピカソしかり、モディリアニ、ゴッホ、しかり。
模倣の中から自分を見つけ出し作品として追及してゆく。
単なる模倣で終らないところが凡人と違う所以だ。

だが著者は寺山修司の総てを”徹底した模倣と虚言と厚顔”と
断言してはばからない。

本当にそうなのか、そんなままでは黎明期の海千山千が割拠する
テレビ界であっても、永くはやって行けないはずだと思う。

寺山修司に引かれるのは、書店に寄るたびに立ち読みしたくなる
彼が詠んだ短歌や詩の中に毒々しい悲しさのようなものがあるからだ。

父を戦争で亡くし、母と二人で食堂の二階に間借りする少年時代。
米軍キャンプに働きに出てからまともに家に帰って来ない母親。

「不良になってやる」のではなく彼は俳句や短歌等の創作に逃げた。

屈折した母との関係がふてぶてしい負けず嫌いな性格をつくり上げ
そこらに転がっている物を拾って作品に仕立てあげ、
そ知らぬふりをするパロディ文化に無意識にはまり込んで行ったのだろう。

パロディこそ真骨頂。寺山修司のニヒルな笑顔が浮かんでくる。


『向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男』 寺山修司


模倣もできない者はそれだけの者でしかない。
他人のものをちゃっかりもらってきて自分の作品にするいいかげんさも、

創作人としての感性と表現力に裏打ちされた、
ある種の力強さがなければできない事。

気になっていた作家は依然として気になったまま、
模倣もパロディも作品として残って行く。



『虚人 寺山修司伝』 田澤拓也








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