健軍小学校への道 6

<佐世保港>

トルーマン大統領が命じた原子爆弾で大勢の非戦闘員が亡くなり、追い打ちをかける様にソ連の満州進攻が始まって日本の敗戦が決まった1945年8月15日から2回目の春3月、ぼくたち家族8人は長崎の佐世保港に引き揚げてきました。

朝早く「佐世保に着いたぞ」という声に、死んだように眠る人達をかき分けて貨物船の甲板に上がった目の先にはしっとりと水気を含んだ緑の世界。港を囲む丘の上で麦踏みをする人の、のどかな風景が目に入ってきました。それからどのくらい経ったでしょうか。DDTの粉末を衿の中やズボンの中に吹き付けられて上陸したのは、ズラッと並んだテントの収容所。腹一杯麦飯を食ったあくる日のテントの周りは、噛まずに胃腸を通過した裸麦の散乱。今でも麦といえば美しい緑と裸麦の排泄物をセットで思い出します。

親が国会議事堂の載った100円札を数枚見せてくれました。里へ帰る汽車賃として支給されたと聞きました。長崎の原爆のことは誰も話してくれなかったし、聞く人も居なかったのは、おそらくかん口令が敷かれていたからでしょう。




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