「もう切るわ」

『ずっと来なかった理由を訊かれないうちに、あたしは水の中へ滑り込む。
体を水に浸すことがこんなに気持ちいいと、久ぶりに思い出した。
準備運動をしないかわりに、スローモーションのように手足を動かして、
ゆっくりゆっくり泳いでいると、重い体が、どんどん軽くなっていく。

こんなふうに簡単に心の中も軽くなればいいのに、
そう思うあたしは歳さんを忘れたがっているのだろうか。
三往復半して休息する。「半」というのはあたしの癖だ、
そこで水から顔を上げると、
正面のガラスの壁の向こうの、見学席が見えるから』

泳ぎながらしばしば二階の見学席を見上げる。
水泳教室に来た親御さん。
トレーニングの一服をする会員さん。
一週間990円体験入所に来た人。
”あたし”がガラスの先に見た見学席は路上カフェ風か。

上から見る水の青に光が乱反射し、
水をすり抜けるスイマーの肢体が光る。

「もう切るわ」

もう切れて、彼女は携帯を切るのだろうか。
歳さんをめぐる愛人と妻の心の迷路に入り込み、
誰が誰なのか分からなくなる奇妙な三角四角関係。
野坂昭如や松浦寿輝にも通じる
主語がすり代わるような不安感に酔わせられるこの小説の一節には
何となく同感するところがあった。

井上荒野は「しかたのない水」でも証明するフィットネスオタク。
新年最初は本の中を泳いだ。








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この記事へのコメント

2006年01月05日 19:42
なんですか、とってもドキドキ・・
mokkuさん、この大人なSEXYさは?
う~む、今年はこの路線なのかしら。
水の中で聴こえる、あの不思議な音を
思い出しました。
あれは、何かに囚われた心がもがく音。

ひゃぁ~、コメントも釣られて
SEXYだと思いません?おほほほ。
mokku
2006年01月06日 17:20
SEXYな雰囲気はbody&soulIV さんのBlogにこそチラリチラリと出現するではありませんか(笑)
もしここにそんなののがあるとしたら、井上荒野さんの吐息でしょう。揺れる女心をこんな如実に表現する作家もめずらしいと感じた次第です。・・さて、女心とは・・
2006年01月07日 03:27
「もう切るわ」って、
なんの話だろうと思ったら・・・
mokkuさん、
あけましておめでとうございます。

mokkuさんの粋なコメントで加速がついた
ボクの悪態ブログ(笑)もやっとで2年目。
SEXYとは遥か無縁の
下ネタ20%増量で今年も書いてやろうと
思っています。

しかし粋なタイトルの本ですね。ボクは
ようやく桐野夏生の 『グロテスク』 を
ハードカバー500円で見つけて
今さらながら読んでいます。
やっぱり最近は、
女性作家の繰るコトバの方が腹にきますね、
腹に、、、

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